石灯籠は金色に輝く
-徳川家霊廟石灯籠献上の裏話(4)-

      
  徳川将軍家霊廟から様々な形で運び出された石灯籠は、移設された場所で静かに佇ずんでいます。伊豆堅石の重厚な石肌は灯籠の量感にも増して見る者に荘厳な趣を与えてくれます。
灯籠に刻まれた銘文を調べていくと、時折朱が挿し込まれたり、剥がれ残った朱の残渣を見ることがあります。明治維新後に撮られた古写真からは銘の部分がどの様に飾られていたかはっきりしたことを見ることは出来ません。
   左の写真は木更津市の日枝神社に有る最樹院に献納された石灯籠ですが、銘文と火袋の葵の紋に金箔が塗られています。ブログでは余り評判が良くないようですが、実は笠石の葵の紋にも金箔を押した物が、実際に将軍家霊廟に献納された当時の姿です。
 前に鴨方藩池田家の灯籠修復に関する史料を紹介した中で、小普請奉行からのいわゆる見積書の中に「御銘文金箔差直」という記事が有ることを紹介しました。
 実は灯籠献上の際の仕様書の中にも金箔を差すという記事が有って、「津軽藩江戸藩邸日記」にもまた今回確認した「(三河)吉田藩江戸日記」の灯籠関係史料にも何カ所かに記載されています。
 笠石の御紋に関しては「厳有院様ご仏前へ延宝九年五月八日津軽越中守石灯籠一基献上之仕立之覚」(弘前市立図書館蔵)の中に「一笠石高壱尺四寸 一同差渡四尺五寸 一笠石の上御門三金はく」と書かれています。
 但し同じ灯籠について見分した別の記録では「笠石之上御紋六つ金はく」と有ります。現存の笠石には六ケ所御紋が残
 されている例が多いので、蕨手で区切られたそれぞれの部分に御紋か付けられ金箔が押されていたことは間違いない様に思われます。
 さてここからが、新たに「吉田藩江戸日記」を参照して判明した火袋内の「金物」の
   ことです。まず火袋について概要を見てみたいと思います。津軽藩の記録を元に火袋を上から描いてみたのが左図です。記録では
 一火袋高さ壱尺四寸弐分
 一同六角差渡弐尺
  右六角之内 めっきから草
  正面  戸 中ニ御紋
  正面左右窓日 めっき金物
  後   窓月 金物なし  
  後ろ左右 窓なし 御紋一宛請彫
  とあります。請彫は浮彫のことです。三河吉田藩の有徳院灯籠に関する記録では、

 火袋之内江入候金物之事、火袋口扉入子前後打貫ニシテとひら壱枚、めっき金物ぼたんから
 草右之内江仕込、後方弐枚とびら内ひらき

と有り別書きで「一御紋月日共ニうけ申候事」としていて御紋月日を浮彫りにする事を求めています。
 しかしこれだけでは今ひとつ金物が火袋の中にどの様に組み込まれていたかが判りませんでした。詳細は省きますが今回吉田藩の日記の中に寛永寺の別当寺東漸院から常憲院・有德院御霊屋へ「廿日より御勝手次第御参詣被成候様」との仰せが出されるので「銅御灯籠風鈴并石灯籠金蓋」を取り外し東漸院へ預けるように廻状が回ります。但し翌日訂正が入り「石灯籠金蓋者御はつし被成候とも又者被差置候共御勝手次第と申御事ニ候」ということになりました。吉田藩では結局金蓋を取り外すことはせず、其の儘差し置くことになりましたが、その理由として

 今度者火袋ニ而就御座候、御役人樣かた江御届申職人・人足等入レ、笠石引上ケはつし
 申候事ゆえ難仕儀御座候上、無益之御入用かヽり、申候

と書いています、上の史料と合わせて「金物」が火袋の中に謂わば入れ子の形で設置されていて、笠石を取り外さなければ取り出すことが出来ない構造になっていたことが判ります。現存する火袋の中に「金物」が組み込まれている例は見られません。また御紋の位置が前方戸の左右に付けられている例が多く見られたり、日月をあしらった窓にも後世の改造も含めて色々なバリエーションが見られますので、もう少し注意深く見ていく必要があるのかと思います。木更津の日枝神社の灯籠は正しい考察を元に修復されていると思います。二天門から霊廟前庭に入ると石灯籠は金色の輝きを放って出迎えていた物と思われます。
                                                  (2022.8.8)