御燈籠は引直し候
-徳川家霊廟石灯籠献上の裏話(3)-

      
 三河吉田藩の江戸藩邸日記の一部が公刊されています。(豊橋市教育委員会)前に津軽藩の江戸藩邸日記で思いもかけず多くの灯籠関係史料を見つけましたので、二匹目の泥鰌を追い掛けていたのですが思いがけなく翻刻史料として手に入れる事が出来ました。
 「吉田藩江戸日記(1)(2)」は正徳2年下総古河から入部した松平信祝以降書き継がれた記録で、宝暦2年(1752)から文政10年(1827) までの日記が残されています。公刊されている部分には有徳院(徳川吉宗)の薨去間もない時期から、惇信院(徳川家重)の1周忌の法要までの記事を見つけることが出来ました。
 この記録を読んでいて最初に目に付いたのは「引直し」という言葉です。吉宗は将軍家霊廟の新規造営を禁止しましたので、没後寛永寺の常憲院(綱吉)廟に合祀されることになりました。同じく徳川家重は増上寺の有章院(家継)廟に合祀されます。
 それぞれの霊廟は元々一代の将軍を祀るために造営されたものですから、そこにもう一人将軍を合祀するためには、霊廟域の構造の大幅な見直しが必要になりました。
 惇信院は最初文昭院(家宣)廟に祀られる予定でしたが、文昭院廟では奥院墓所を拡張する余裕が無く、有章院廟に変更されることになりました。献納灯籠についても、勅額門内、二天門内の前庭に従来の倍の灯籠が配置されることになりましたから、既に献納されていた灯籠を移動して、二人の将軍を祀るにふさわしい灯籠配置を考えなければならなくなりました。そこで行われたのが灯籠の「引直し」(移設)です。
 最初の廻状は宝暦二年二月十九日に出されています。吉宗が亡くなったのは寛延4年6月20日ですが、この後宝暦に改元されていますので、宝暦2年は逝去の翌年になります。「吉田藩江戸日記」には
御廻状写
 此度有徳院様御霊前江御燈籠献備有之候ニ付、先年常憲院様御霊前江献備之
 御燈籠引直可有之候、御銅灯籠者風鈴瓔珞不足之分仕立、御石灯籠者火袋
 不足之分仕足可被申付候、御銅灯籠・御石灯籠共ニ磨直ニ者不及候間、
 可被得其意候、尤引直日限場所之儀者追而可申達候、

 既存の灯籠に欠損が有る場合には修復の必要があるが、磨き直しまでは必要がないとしています。
 次いで27日には場所割りをするので3月2日に職人・人足を連れて上野の松原会所に来る様に廻状が出されています。3月2日は雨天でしたが、職人・人足を連れ松原会所へ出向き、人数分の鑑札を貰って霊廟内へ入り、常憲廟へ献納した灯籠2基を取り崩し、

 御石灯籠江和久仕かけ取崩申候処、御普請役御徒目付差図有之、左方ニ建有之候
 御石灯籠之前江取崩申候侭ニ而、火袋棹石計琉球ニ包二台一所ニ差置御名札建之、

 火袋、棹石は琉球莚で包んで露盤石、中台、笠石などと一緒に勅額門前左側に片付けています。琉球莚は丈夫で耐久力がありますので、壊れやすい火袋や銘文が記されている棹石を保護するために包み込んだものと思われます。
 3月18日には取り崩した2基の灯籠を指定の場所へ立て直すように命じられ、20日に指定された場所へ立て直しています。

 夫より御霊屋江罷越、御徒目付立会場所請取、組たて火袋入漆喰等附相仕廻、掛り
 御役人江相届、見分之上差図ニ而火袋計琉球ニ而包、封印仕相渡、無滞相済申候

 ここでも組み上げた灯籠の火袋の部分だけを琉球莚で包んでいます。立て直した灯籠の
場所については次の様に記録されています。

 一御石灯籠建申候場所、前方ゟ拾間計下り申候右之訳內々承申候処、向側
   御石灯籠順々ニ左側江引、片脇江不残建申候由ニ御座候

 常憲院廟に献納した石灯籠2基は勅額門外右端に有りましたので、勅額門から十間下がった左側に移された物と思われます。役人に尋ねたところ順々に移設し残らず左側に立て並べるとのことでしたと報告しています。
 4月25日に今度は有徳院へ献納する石灯籠について廻状が回り、5月朔日に再び職人を連れ常憲院霊廟へ行き、灯籠2基を運び込んで組み立てを終えました。場所については記述が有りませんが、前の記述から有徳院へ献納される石灯籠は勅額門前右側に建て並べられた物と思われます。
 同日老中で造営の責任者であった松平左近将監へ灯籠の献上を終えたことを届け出ています。

 一御普請方御徒目付罷越場所相渡受取之、御石灯籠御霊屋外ゟ持込組建火袋仕付、
   見分有之、宜出来之旨挨拶申聞、相渡引取申候

 同じ時期の「津山藩江戸日記」(津山郷土博物館デジタルアーカイブ)には銅灯籠の「引直し」の状況を誌した記録が残されていますので、有徳院以降の将軍霊廟の風景を語る際に纏めてお話ししようと思います。
                                             (2022.8.10)