燈籠石は船に揺られて
     −徳川家霊廟石灯籠献上の裏話(2)−

 
『燈籠は牛に牽かれて』の中で、徳川将軍家霊廟に津軽藩から献納された石燈籠が、日本橋の石屋によって請け負われ、上野に納められたことが判りました。
 江戸の石屋については資料が少ないのですが、吉原健一郎氏が「江戸の石問屋仲間」という論考で、東京都公文書館が所蔵する『石問屋文書』を中心に江戸の石問屋の実態を考察しています。
 吉原氏の引用資料の中には、有徳院霊廟へ献上の石灯籠について江戸の石問屋伊豆屋与兵衛が伊豆の伊東村で「三十七基同富江村より四十基余為切出候」と記述されています。
 有徳院(徳川吉宗)霊廟造営時には、江戸の石問屋が大名家の注文を取り纏めて伊豆の石切り場から大量に灯籠石を取り寄せていることが判ります。
 江戸城築城の為に利用された伊豆石と、伊豆の石丁場に関しては『江戸築城と伊豆石』(江戸遺跡研究会編)に詳細な論考が纏められています。
 この中で金子浩之氏は将軍家霊廟の宝塔石、灯籠石について幾つかの例を紹介されています。
 前のコラムで紹介した厳有院廟へ小田原藩が献上した唐金燈籠と地盤石の例は『小田原市史 資料編』を元に記述されているのでまずその資料を引いておきます。

 延宝九年三月廿八日 陰 巳中刻ョリ晴
一厳有院様御仏前江御上ケ被成候地盤石・唐金之御燈籠
 両基、椎名伊予ニ被仰付出来、今日上野江就被遣、奉
 行中西五郎左衛門・安田茂右衛門・奥田清大夫・米津
 六右衛門・間坂半助被仰付、上野ニ立置及黄昏罷帰候、
 御足軽・御中間如左
 杖突拾弐人御足軽小頭・御中間頭 茶色之羽織着
      小人目付・仲ケ間之者 
       御足軽五拾五人      紺之単物着    
      御中間八拾八人
 日付に注意して下さい。津軽藩が石燈籠を上野に搬入したのが3月27日で、その翌日の28日に設置が終わっています。一方小田原藩の唐金燈籠は地盤石と共に28日に上野に運び込まれています。
 この記事に関する金子氏の解説は少し読み解くのに注意を要します。金子氏は唐金燈籠と地盤石が小田原から陸路上野に運び込まれたとしますが、それは可なり無理な解釈です。資料中に有る椎名伊豫は江戸の鋳物師で、しかも当時厳有院霊廟の鋳物師でもありました。燈籠の制作地は江戸で有り、江戸で作られた唐金灯籠をわざわざ小田原へ納めて再び江戸へ運んだなどと言うことは有り得ないので、此の記述は江戸藩邸の記録と考えた方が良いと思います。ですから当然地盤石も船で江戸まで運ばれていて、唐金灯籠と共に上野へ納められたと考えるべきです。
 金子氏の書くように「小田原藩主稲葉家の唐金燈籠二基は、陸上輸送で献上された点にある。献上行為を沿道の民衆に見せることが意識されたのであろう。」というのはそもそも成りたたない推論と思われます。
 また金子浩之氏は『近世大名墓の制作−徳川将軍家墓標と伊豆石帳場を中心に−』(『近世大名墓の世界』)の中で「伊豆半島北西海岸域の井田村(現沼津市井田村)の石丁場内に祀られた、石造不動明王像の銘文」から厳有院霊廟の宝塔が延宝9年正月8日までに井田村で完成し舟奉行の伊奈兵右衛門忠易、忠至によって船で江戸へ運ばれたとしています。石造不動明王像の銘文には「御石作師 亀岡久三郎」と有りますが、この亀岡久三郎は椎名伊豫と同じく厳有院霊廟造営の石工の責任者でもありました。おそらく、石工を率いて井田村まで出向き宝塔石の荒仕上をして江戸に送り出したと思われます。
 幕府の大工頭の鈴木修理の日記『鈴木修理日記』には江戸に着いた宝塔石が上野に運び込まれ組み上げられていった様子が詳しく書かれています。

延享9年3月
 十九日 御笠石上野へ着。
 廿九日 今日、御宝塔御地盤石引居ル。
 四月朔日 上野江参、加賀守御出、今日御宝塔足代致、暮合御帰、 
 四日 上野へ罷越、今日御宝塔御銅筒石建、加賀守殿も御出、暮前御帰り。
 八日 今日、御笠石足代半バ引上ル、加賀守殿御出、御霊前江も参詣。
 九日 上野へ出、御笠石、未刻無相違被為上、相済、帰、
 廿二日 酉刻、御宝塔江御尊体奉納
 注)足代は足場のこと。
 これに先立つ2月の8日には久能山に居た鈴木修理の元へ江戸から「亀岡久三郎方ヨリ飛脚差越。」とありまするので宝塔の仕上げの予定を知らせてきた物と思われます。
 石灯籠に関してもう一つ興味のある記録を引いておきます。
『沼津市歴史民俗資料館紀要13』に納められた高本浅雄氏の『戸田村の石切文書』で、文恭院霊廟へ献納する公儀御用の灯籠石50基を江戸鉄砲洲明石町の石問屋日野屋仁兵衛が戸田村勝呂弥三兵衛に発注した際の文書で、その際の寸法仕様が記されています。
燈籠石寸法
 下段 弐枚合 大サ 四尺七寸   厚サ 壱尺三寸
 上段 壱枚  大サ 三尺八寸四方 厚サ 壱尺四寸
 竿 壱本  長サ 三尺五寸     厚サ 弐尺弐寸
 受 壱本   大サ 三尺三寸四方 厚サ 壱尺二寸
 火袋壱ツ  大サ 弐尺一寸六角 厚サ 壱尺六寸
 笠      大サ 四尺九寸    厚サ 壱尺八寸
 宝珠    長  壱尺八寸    厚サ 壱尺七寸
                   (勝呂家文書一九九)

 これを東京都中央図書館木子文庫所蔵の甲良家資料にある「石燈籠之図」に書き込まれた寸法書きと比べて見れば、ここに指示された寸法がそれぞれ完成寸法より一回り大きいことが判ります。
 以上の文書から明らかなように、有徳院霊廟造営時までに、諸大名が献納する石燈籠は江戸の石問屋数軒が数十基程度で請け負い、伊豆の石丁場を管理する村々と契約をして切り出しを行い、荒仕上をした後、船で江戸に回漕された。江戸では完成寸法まで仕上げを行い、笠の葵のご紋、献納する大名の銘文などが刻み込まれて霊廟に運び込まれたことが判ります。
(2015.6.27)