燈籠は牛に牽かれて
        −徳川家霊廟石灯籠献上の裏話−

 先日日暮里の元レンタカー会社の敷地から増上寺へ1基の石燈籠が運び出されました。造成を請け負った建設業者の文化財保護に対する熱意から実現した57年振りの増上寺への帰還です。クレーンの付いた造園業者の大型のトラックに積み込まれ運び出されていきましたが、では徳川家霊廟に大名家から石燈籠が献納された時には、どんな手段でどんな風に運び込まれていったのかそんな風景について少し書いてみようかと思います。
 そもそも燈籠はどこで造られどの様に霊廟に運び込まれたのでしょうか?
 確かな史料が見つかりました。厳有院石燈籠造立関係の津軽藩の史料が弘前市立図書館に所蔵されており、その中に『延宝九酉年正月九日日記書抜』という文書があります。詳細は後ほど発表する予定ですが、この文書には、四代将軍徳川家綱、厳有院に献納される津軽藩の石燈籠を江戸八丁堀の石屋から寛永寺の霊廟まで運び込む道程に関する記事が描かれています。請け負った石屋の名前は与左衛門と記されています。
 八丁堀は、松尾芭蕉が「菊の花咲くや石屋の石の間(あい)」と句を詠んでいる場所で、石屋が多かったとされていますが、この時代にはまだ霊岸島が中心で八丁堀に石屋が多くなるのは後のこととされています。(吉原健一郎『江戸の石問屋仲間』)
『延宝九酉年正月九日日記書抜』の延宝九年三月十二日の記事を意訳しながらお伝えします。
  大久保加賀守様へ(江戸藩邸の)戸沢弥五兵衛が御石燈籠をいつ頃差上たら良いか伺
 い書を出したところ、一昨日になってこの廿八日に献上するように仰せがあったので、
 石屋に確認したところ廿六日には間違いなく出来上がるので、廿七日には東叡山に引届
 け翌日仕上を行うので廿八日までに献上できるとお届けした。

 大久保加賀守忠朝は老中で厳有院廟造営の責任者です。津軽藩江戸藩邸では、戸沢弥五兵衛が幕府との取り次ぎ役を務めています。
 二十五日の記事です、
  上野 御仏殿へ石燈籠を御献上の前々日地盤を拵える為に惣奉行小川定右衛門は麻
   裃、川越清左衛門は裏付裃、下奉行清水長兵衛は羽織裁付(たっつけ)を着て、杖突
  三人、鳶の者三十人、石切一人、石屋手代一人と共に参上した。
 石燈籠を建てる場所の基礎を拵えるために総奉行小川定(貞)右衛門以下津軽藩の役人が出向き、杖突(幕府の普請方支配の役人)3人が同行します。下奉行清水長兵衛は作事方大工頭であり、厳有院霊廟造成敷地内に有った津軽家の東叡山津粱院御廟所移転の際にも地形の拵えを指図しています。(山澤学『上野東叡山における弘前藩津軽家御廟所祭祀の確立過程』)
更に二十七日の記事を追います。この部分は流れのみを追います。
此の日つまり延宝九年三月二十七日に、津軽藩士佐藤新五左衛門、川(河)越清左衛門が騎乗にて後先を固め、間に石燈籠1基分のパーツを載せた牛車四頭が江戸市中を八丁堀から上野黒門迄進みます。勿論津軽藩の足軽が牛車の傍を固めます。黒門に着きますとここからは御歩行つまり幕府の警護役の御徒歩が十二人加わって所定の場所まで付き添います。実際の作業をするのは石屋から派遣された人足や鳶の者ですが、皆赤飯を振る舞われています。
 津軽藩は厳有院の霊廟には1基のみの献上ですが、それでもこれだけの人数を繰り出しての作業になります。恐らく八丁堀から上野までの道中は津軽家の旗指物を掲げた厳粛な行列になったものと思われます。日光大猷院の霊廟に献上された石燈籠は250基ですから、厳有院にもほぼ同数の石燈籠が献上されたとすれば、毎日毎日江戸市中を燈籠を運ぶ牛車の列が通り過ぎていったことになります。
注 人名に括弧書きがあるのは同時期に津軽藩主津軽信政に従って参府した大組足軽頭添田儀左衛門の『添田儀左衛門日記』の記事によるものです。(浪川健治編『近世武士の生活と意識「添田儀左衛門日記」』